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薬籠の中 (やくろうのなか)

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干支はとり 

一月一日

私と 道草つつく4羽の(はと) 元日だけの静もる空気の中に 

 

ゆるゆる 小細(いさら)揺るぐ尾羽に巻き込まれてる枯葉一葉 引きずつつ 食餌(しょくじ)探しに勤しんでいる一羽の可笑しみ、有難く しんみり 感慨にひたった-----私と現実との関係で 私のなぐさみはこれだけだと

 


一月二日 いつのまにか三日になっていた。

 

一月三日 気付いたら四日になっていた。

 

一月四日 15日になるための過日という以外の意義を持ちえなかった。

 

一月五日 引き続きただ捲られるためだけの日。

 

一月六日 7日に日を繰る為には6日が必要である。

読書、近頃、(はか)行かぬこと甚だしい

 

一月七日 年頭も早一週間を閲した。唖然。この唖然に倦んでいる事に、唖然とできているから、まだ騒ぐこともなかろうと思っている。死ぬまでこんな風に過ぎてゆくのかしら、なんて問題提起がまだできている。いかにもユウチョウである。

 

 

一月八日

久々に電車に乗る。とある馴染みの駅舎が改修工事の最中で、構内は白い衝立に囲まれていた。

街に 風景に 置き()られ

街が 風景が 仮借無く跡形無くして 我々を通り抜けてゆく

この感傷を実感してしまえば おとな。

 

一月九日 成人の日。それはさておきT-REX聴く。マーク・ボラン没後の年歳を、生きなければならない。嘆息すら逡巡して出来かねた。

 

一月十日 冬日和。 正午大黒屋食事。 夕刻浜辺にて海に臨む。

干らずに残る、目下より潮満ちていた一刻の汀線なぞる、打ち揚げられた尽くせぬ貝殻。その線上を渡って・・・なんだろう? 砕ける貝殻の音と感触の小気味よさを波音がさらい、映帯する斜陽と海洋が消失する水平線に祈るが如く食い入るけれど・・・。慰められる心地の一方で、締め付けられる心地もある。死ぬまでこんな風に過ぎてゆくのかしらと。


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問:傍線部2「『他者の世界の中に意味ある場所を作り上げる』という絶望的な営み」とあるが、例えばどのような営みか、四十字以内で書け。


答:人生は一行のボオドレエルにも若かないと叙した芥川龍之介或いは妻子を養う俸

  給生活者


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酔狂に納豆へ枝豆を入れ食べてみた。

悪くない。思いの外、お互いの旨味が睦み合う。

ただ、枝豆が納豆(小粒)に比べるとちと大きく、また、固さもあるから、枝豆をある程度咀嚼してしまわぬ内は枝豆に異物感を感じてしまう。今度、機会があったら、予め少し枝豆をきざんで細かくしてから混ぜてみよう。

ところで、この酔狂の間、枝豆をそのまま納豆化したら面白いのではないか、これはひょっとすると今までに無いオリジナルの発想じゃないかと、ちょっといい気になっていたが、<納豆 枝豆>でグーグル検索すると既にそういった商品はいくつもあり、また、納豆に枝豆を混ぜて食べるというのも同検索結果から散見された。そりゃそうか。

 

 

煮干しを6尾か7尾、弱火でさっと炙る。

茶碗によそった白飯の中央にそれを盛る。

濃いめの緑茶を煮干しの上へ細く長く注ぐ。

梅干や香の物を添えて出来上がり。

 

・・・・・・。

・・・・・・夏気を払う野分はまだか・・・。


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--葉月うどん徒然記(とぜんき)-- 

うどんを食べることにした。

私はうどんより蕎麦を好む。だから普段あまりうどんを食べない。

先日、買い物の途中に偶然生めんの(うどん)を見つけ、生なのを珍しがって買ってみたのである。他人にはさして珍しくもないかもしれないが、スーパーでうどんを買おうとする場合もっぱら乾麺か冷凍物で、生めんという選択肢がそもそもなかった人間には珍異なものに見えたのである。而して好奇心に駆られ、フードパックの蓋に貼られた三割引のレッテルに背中を押され、衝動買いした次第である。麺の太さはごく一般的なもの。

冷やしで食すことにした。汗と皮脂を出したくないので。食べたら寝る。これは酒の締めだ。

調理。鍋に水。火にかける。湯、沸く。指定の茹で時間、13分。長い。二桁となるとなにか貫禄じみたものさえ感じさせなくもない。麺を五指で(もた)げる際感じた、小麦粉く煉られひしと詰まっているのを思わせる量感と打ち粉しっとりした表面の質感は、饂飩の太さもあって少し人の肌をおもわせた。茹でる。待つ。窓外の、午後3時の鈍重な陽光が私の眼に冷ややかな眩惑を注ぎ込む。()ひらしい()ひは、既にない。端的に疲れた。近頃は酔飽よりその草臥れ儲けが得たくて飲酒している節がある。太陽と睦むことを忘れた夏。タイマー鳴る。水洗いしてぬめりを取り、氷水でしめる。ざるにあけ、水切る。調理の手始めに冷凍庫に入れておいた割った麺つゆ入れた椀(つゆを割る際若干濃いめにして氷一個入れておく)(猪口は故あって今無いので、汁椀で代用した)、取り出す。無くも無い貫禄の茹で時間のお陰でなかなかよく冷えている。最後に薬味のワサビ(無論チューブの)を添え出来上がり。ざるに乗ったうどんは乾麺や冷凍物にない艶やかな光沢がある。そして乾麺や冷凍物よりも白が濃く見える。美味そうである。物珍しさで心持はやっていた気持ちがピークに達する。咽が鳴る。

(余談だが、蕎麦でも素麺でもとにかく麺を冷製でこさえる場合、氷水に麺を(くぐ)らす工程を経ない者が私には信じられない。もってのほかだと思う。単純な温度の違いは無論、麺がきちんと締まらず、コシがまるで足りないものになるではないか。蛇口からの流水だけではどうしたって熱湯の熱のなごりが残る。どことなくぶよぶよ、ふやけた食感、文字通り微温的で、啜るにも噛むにも張り合いが無いこと()の上ない。この一手間を省略するならそもそも麺を冷製にする甲斐など無いと思う。)

 

早速食す。・・・啜るまではよかった。

-----固い。-----というよりほぼ茹で上がっていない。茹で上がっていると呼べるのは表面からの厚さ3割程にとどまり、残りは麺の中へゆく程生地に似る。中心はほとんど生地のそれの食感。急転直下して苦々しくなってゆく食前の期待の悉く。

・・・きちんと時間通り、煮立つ湯でもって茹でたというのに何故、という義憤は、即座に指定の13分が温かく食すのを想定したものに違いないという解にたどり着き、解とほぼ並行して、ならば冷製に適した茹で時間を指定する乃至(ないし)は冷製には素より合わないという注意書きを記しておくべきだという製造元の無調法への非難にゆき着いた。が、見た目ばかり良い出来損ないのウドンを恨めしく凝視しつつ、長い事筋力トレーニングの如く咀嚼しながらも(なお)なかなか飲み込む機会に至らず噛む事にすっかり嫌気がさしている状況下に置かれた我を鑑みると、そんな至極もっともな論はいたずらに悲憤を昂ぶらせ、むなしさを膨らせるばかりであった

不請不請(ふしょうぶしょう)また一口すすってみる。ゴムである。もはや茹で上がった表層もその印象を助長する効果しかない。およそ食の快楽は無い。口腔でゴムを噛み、胸中では苦虫を噛み潰す。辛うじて噛み千切り嚥下はできる。

『なに、まだ一玉残っている』咬筋を意識してモノを食べるのはいつ以来だろうと考えつつ、次こそはとリベンジを誓い、私は小麦をゴムに似せたものをヤケクソになってなんとか胃に落とし込んだ。

 

食器を下げ、口をゆすぐ。

ベッドに臥す。ああ------この感じ。疲弊の感じ。

私は直ぐ意識が無くなることができるという------これは快味である・・・。

* * *

二度目。結論から言うと轍を踏んだ。初回よりは幾分マシにはなったが失敗の範疇であった。

今度は18分茹でた。そして麺を鍋から上げる前に試食をした。それで私なりにアルデンテを予感しまあよかろうと決断したのだが、この生饂飩、氷水でしめることによる固さの変化は私の想定を遥かに超えた。今度の茹で上がりの割合、せいぜい5割。一口啜った後の悄然の程は前回以上である。

13分で3割だったのだから5分程度の延長ではと算術的観点から指摘されるかもしれないが、固さの変化が想定を越えただけでなく、茹でている時に麺の表面は軟くなりすぎて剥落しつつあった事も、18分で火を落とした理由にあった。

しかしながら、訳はどうあれ二度目にして5割の茹で率(アベレージ)という結果には自分自身に情けなさを感じない訳にはいかなかった。そこで、胸中の苦虫が算術観点党と表面剥落党の両陣営に分かれ内罰と外罰の代わるがわるを幾度か反復する羽目に陥った末に、冷製に適した茹で時間を指定する乃至は冷製には素より合わないという注意書きを記しておくべきだという製造元の無調法への非難にゆき着いた。既視たる見た目ばかり良い出来損ないのウドンを重ねて恨めしく凝視しつつ、やはり筋力トレーニングじみた咀嚼をしながらも(なお)なかなか飲み込む機会に至らずにいるがそれでも前回よりかは幾分マシということをせめてもの慰みにして麺をすする私はこう考えた。

『二度目のしくじりで芯まで茹でる為の見通しは大方ついた。しかしまた玉を買ってきて三度目の正直、捲土重来といく気にはならない。中まで茹で上げても今度は表層が駄目になるかもしれないし駄目にならなくとも、適正な茹で加減を得るには20分はおろか25分以上かかりうる。さすがにそれほど好いてはいない饂飩に半時付き合う気は起こらない。覆水盆に返らず。茹で麺生地に戻らず』

斯くして私は諦念の心境に至った。というか、うどんの分際で不遜なんである。氷水でしめなければ張り合いが無いと前述したが、これは張り合いが過ぎる。はねっかえりである。-----しかしながら、その強靭ともいえるそのコシの強さこそ生めんの饂飩でなければ味わいえぬ大いなる魅力、他の麺と一線を画する点であろう。いや、生めん云々という事でなく、多少はねっかえるほどの弾性の(つよ)さがあってこそ本来の饂飩なのに違いない。私は普段食す饂飩が、如何にもどきであったか-----理屈としてはもどきなのは無論分かっていたが、実感として再度知らしめられた次第である(再度というのは、だいぶ昔に散歩中たまたま立ち寄った個人でやってる饂飩専門の店でもりうどんを食べ、その美味さに感動して今度と似たような眼から鱗が落ちるの体験をしたのを思い出したのである。もちろん店で供された饂飩は私がやらかしたような無調法は無かったし、私が調理した饂飩からは感動などあろうはずもないが)。

とはいえ、うどんを冷やしで食す事はもう当分なかろう。やはり冷やしは蕎麦に限る。時間を取られるのが不服なら細い玉を選べばよいのではと云われるかもしれないが、そもそもうどんには蕎麦湯に相当するものがない。その点、私には大いにいただけないところなのである。

 

それに夏も、もう終わりだ。


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一介の酒徒となりて、人はパンのみで生きれるという最終定理を便々となぞる。

胃袋は、ありとあらゆる形而上をも呑みこんでくれる器官であるという-----

詩心は悉く手淫に流れ・・・・

 

日々、時節の変現を睦み、慈しむ ----そんなことはもう忘れてしまった日々

久方ぶりに家の外に出、木々の変容を目の当たりにし始めて、時の経過----畳なわった無為の厚みを、知る


そんな人生

こんな人生にあっては、五月(さつき)晦日(みそか)の温度した、ぬるい葡萄酒を嚥下する清夜が唯一の本然


欲しいものは ひとつ

 静か


活気は毒気(どっき)

 

 

-----そんないじましい幸であっても、しかし束の間

(日はまた昇るからこその、アタラ夜、なんてことを言うのは一先ず今は止してくれ)

やっと人心地ついた折も折

うそうそ時の白々した水色の明暗と蠢蠢(うごうご)する雑多な鳥の鳴き声、迫る

太陽、刻一刻と三界(さんがい)を浮かび上がらせる 僕の靖寧は、容易くにじられてゆく

明日、いや、今日の午後二時頃また(まみ)える太陽

その時刻に辟易し切りながら怯えながら、拉麺(らあめん)すする

そんな人生

日々、時節の変現を睦み、そして慈しむ----そんなことはもう忘れてしまった日々

・・・・デカダンスとやら、死ぬまでに、一日ぐらい、やってみたいな。僕は居酒屋に入った事も無い。

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